「苦難を主のもとに」
2023年10月15日主日礼拝説教梗概
聖書:ヨブ記42章1~6節
説教:山形宣洋KGK主事
ヨブという人物がいます。彼は、苦難を悲しむことが苦手な人物でした。その証拠に、彼の財産と子供が一瞬にして取り去られた報告を聞くと、彼は神様を賛美したのです。「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。(1:21)」ヨブは、自らを襲った悲しみに嘆くことをせず、神様を賛美することで、自分の正直な思いに蓋をしました。
「自分はクリスチャンとしてこうありたい!」という美意識は、この世界に起こる出来事を、神様ご自身を、単純化してしまう強烈な誘惑となり得ます。信仰深さとは、真っ直ぐに神様を見つめ続けていくことではありません(そんなことは不可能です)。むしろ、取り巻く環境の変化や状況に翻弄されながら揺さぶられながら「神様、どうしてですか?」と、率直に疑問や不満をぶつけられる信仰です。
「主は与え、主は取られる。…」という綺麗な言葉は、3章以降から姿を消します。むしろヨブは「私が生まれた日は滅び失せよ。(3:3)」と、自分の人生を呪うのです。汚い言葉ですがリアリティのある言葉です。神様に本音で嘆くことができたのは、3人の友人が、ちりを自らの頭にかぶり、7日間もヨブに無言で寄り添い続けてくれたからでした(2:12-13)。
私はKGK主事一年目に「学生に寄り添う友となりたい」と答えました。ただ、本当に寄り添う友となるには、3人の友のような覚悟が必要であることをここから教えられます。自分のやりたいことをわきにおいて、とことん痛みに寄り添っていく。生産的な時間ではありません。「これが何の役に立つのか」と思います。しかしそのような時間が、僕にとっての友(学生)が、正直な思いを、最も相応しい相手である神様にぶつけることができるために必要な時間となるのです。
ヨブは、自分の溜まっていた思いを神様に吐き出しきった後に、神様は遂にヨブに現れます。ヨブはこの出来事からこのように告白しました。「私はあなたのことを耳で聞いていました。しかし今、私の目があなたを見ました。(42:5)」たとえ、私たちの人生に大きな苦難が押し寄せたとしても、神様を信じ、寄り添ってくれる教会という交わりに身を置きながら、「私の目があなたを見ました」と、これまで以上に神様ご自身を見ることができる日が来ることを待ちたいと思います。
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