「主のみこころなら」

2023年10月29日礼拝説教梗概

聖書:ヤコブの手紙 4章13~17節

説教:安藤啓子牧師

 前回開きました12節で神をないがしろにし、隣人をさばく者に「あなたは、いったい何者ですか」と問い質した後に、ヤコブは、今日の箇所で人間がどのような存在であるかを語っていきます。13節の「今日か明日、これこれの町に行き、そこに一年いて、商売をしてもうけよう」と、自信たっぷりに言っている人たち。ヤコブは、このような計画を立てること自体は決して誤りではない。けれども、これらすべての決定が、全く自分だけのものであり、自分の人生を思うままにコントロールできる。自分の運命を握るのは、自分以外の何者でもないと信じているところに、彼らの誤りがあると指摘しているようです。そこでヤコブは商人たちに、「その態度」を「自己中心からではなく」「主のみこころであれば、私たちは生きて、このこと、あるいは、あのことをしよう」と言うべきなのですと教えています。私たちも、「主のみこころであれば私たちは生きて、今日、神様の為に生きよう」と、神様のご用の為に生きせてくださいと、イエス様のお名前で祈り願っていきたいのです。それは、遣わされている会社や学校、地域というそれぞれの組織の中で与えられている責任や役割を神様の前に誠実に果たす事。世界平和の為に祈る事。また自分の時間を取り分けて具体的な援助を必要としている方の隣人になる事。自分の家族や教会員とその家族の救いの為に祈る事。福音宣教のためにと、一日一日を大切に、主の導きの中で丁寧に生きること。私たちが日々神様に信頼して歩み続けるなら、この世のいのちの終わりをいつ迎えようとしても、主のあわれみの中で、神様のあなたへのご計画を実現させることはできるでしょう。17節を読んで、律法の中心は愛なのに誰かがあなたの助けを必要としているとき、それを知りながら知らん顔をしているのも罪であると。愛することを行なわないのは、その意味において罪であると。もっともっと生ける真の神様を信じて、共に歩ませて頂きましょう。私たちに今必要なのは、神様を神様として信じ切る信仰なのでしょう。心を一つにしてイエス・キリストのお名前で祈り合ってまいりましょう。
 最後の審判の日。さばき主なる神の前に立つ者に聞かれることばは、「どんな良いことをしたか」ではなく、「どんな良いことをしなかったか」という言葉です。

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setachu
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