「完了した」
2024年5月26日主日礼拝説教梗概
ルカの福音書 19章16~30節
説教:安藤友祥主任牧師
ヨハネはイエス様の十字架の出来事を書き記す時、読者である私たちの視線を巧みに誘導しつつ、そこで起こっている出来事を伝えます。
十字架を背負いどくろの場所に向かうイエス様。二人の犯罪者の真ん中の十字架に掲げられます。イエス様の頭上にはユダヤ人の使うヘブル語。ローマ帝国の公用語であるラテン語。当時の世界の共通言語であるギリシア語が使われ「ユダヤ人の王、ナザレ人イエス」とそこを通りがかる誰でも罪状を見て分かるように書かれました。ピラトは罪状として掲げましたが、結果として世界に対する「イエス様はまことの王である」と言う宣言がここでされています。
次にヨハネはイエス様の服をくじで分け合う兵士たちの姿に目を向けさせます。詩篇22篇の成就であるとともに、イエス様の下着に関して詳細に書き記すヨハネ。ここに書かれている服の特徴は大祭司の服装を思い起こさせます。まことの大祭司として十字架にかかられているイエス様の姿をヨハネは見せるのです。
ヨハネは4人の兵士と対象となる、4人の女性の姿に目を向けさせます。そこにいるのはイエス様の親族。ただ母のことを「女の方」と呼ぶイエス様。ヨハネは1章で神様のひとり子であるイエス様を紹介しています。ここでも女の方と呼ぶイエス様の姿は、神の子としてのイエス様が、母の子と混ざらないようにという表現に取れます。神の子が十字架の上にいる姿をヨハネは見せます。
まことの王として、大祭司として、神の子として。そしてバプテスマのヨハネが言うように、神の子羊として十字架の上にいるイエス様。確かに十字架の苦難はあります。けれども、イエス様は被害者、犠牲者としてではなく、神様の計画を自ら成し遂げるものとして、十字架の上にいらっしゃるのです。
イエス様は十字架の上で渇かれました。いのちの水を与えられる方が、渇きを覚えられる。私たちと同じように、渇きを覚えるものとして、十字架で罪を負いきってくださいました。
イエス様は十字架の上ですべてが完了したことを知られると「完了した」と宣言されました。この言葉は借金等の完済した時にも使われる言葉です。もう完全にやり切った。約束されていた救いの計画で、イエス様が地上ですべきことを成し遂げた。そしてイエス様の死を通して、私たちにいのちが与えられるという勝利の宣言が十字架の上でされたのです。
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