「イエス様にとどまる」
2024年1月14日主日礼拝説教梗概
ヨハネの福音書 15章1~11節
説教:安藤友祥主任牧師
イエス様はヨハネの福音書において、7種類の「わたしは○○である」と語られ、その最後として、「まことのぶどうの木である」と教えられました。旧約聖書を読む時に、ぶどうの木のモチーフはイスラエル民族に対して使われ、イザヤ書5章などでは、ネガティブなイメージで使用されています。かつてのぶどうの木に変わる、本当のぶどうの木としてイエス様は来られたのだと。同時に、父なる神様が農夫であると例えられました。
イエス様は弟子たちを批判したり、脅すために語られたのではないと考えます。最後の晩餐は最後まで愛を示されたという文脈であり、3節では、あなた方は既にきよい。きよめられていると言われます。イエス様はこれまでに、神様が求められる生き方、価値観、考え方。それらを弟子たちに教えつつ、同時に、彼らから取り除くべき思いや、考え方を取り除かれてきました。
イエス様はこの夜、繰り返し「イエス様にとどまる」という事を語られています。なぜならば、イエス様にとどまっていなければ、実を結ぶ事が出来ないからです。イエス様はここで、頑張って実りをつけなさいと言っているのではなく、ひたすらに「わたしにとどまっていなさない」と言われているのです。同時に、イエス様にとどまり続ける事の恵みを弟子たちに教えられているのです。私たちが結ぶ実を通して神様が栄光をお受けになる事を。
ヨハネの福音書の中で「とどまる」という言葉は、イエス様の言葉、教えられた事を守る、みことばに生きるという文脈で使用されています。イエス様の言葉に従うという、イエス様との交わりに生きる事、そして「与えられている聖霊が私たちの内にとどまる」という事を通して、私たちはイエス様にとどまるのです。そしてその歩みの中、祈りはおのずと、神様が喜ばれる、神様の栄光を現す事が出来る実りを、私たちが実らせる事が出来るようにという祈りへと導かれていくはずです。何より、実りはイエス様への祈りの結果与えられるものだからです。
イエス様にとどまる時、農夫である父なる神様によって必要な時に刈り込まれる体験があります。時として痛みが伴う出来事と言えます。私たち一人一人にある、余分なものを取り除き、より多くの実を実らせる、イエス様との関係を深め、整えるための働きかけなのです。
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