「主は、よみがえられた」

2021年4月4日イースター礼拝説教梗概

聖書:ルカの福音書24章1~12節

説教:安藤友祥主任牧師

イースターの朝、空になった墓の意味、その重要性を、この時、誰も理解することは出来ていませんでした。 人間の信仰の弱さ、イエス様の言葉に対する信頼の弱さがここにあります。信じている、聞いている、知っている、覚えているはずなのに、それらの言葉を一番思い出さなくてはいけない時に、思い出す事が出来ない。希望を聞いていても、目の前に起こる大きな出来事に心が支配され、思い出す事も出来ない。そしてイエス様の言葉に対する不信仰に陥ってしまう。不信仰とは、何も裏切ると言った出来事だけに限らず、イエス様の約束、言葉を信頼できない状態をさすと教えられます。一見、イエス様への愛に満ちた、丁寧な埋葬という行動も、不信仰から来る行動であったからです。 教会のメインメッセージは、イエス様の受難と復活です。 ただ私たちは「主は、よみがえられた」と福音を宣べ伝えているのでしょうか。伝道をする時にイエス様の教え、神様と生きるとはどういうことか、そこにある喜びや希望を伝えるかもしれません。ただそこで、よみがえられた主を、主の復活を伝えているのかと問われるのです。 私たちが宣べ伝えているのは、その死の力に対する勝利であり、私たちもイエス様のようによみがえるという先の希望です。イエス様が復活されたから、私たちもその新しい命で生きる事が出来るという希望です。 教会の働き、宣教は、サタンよりも、死よりも、地上の力よりも偉大な名のもと行われている事を忘れてはいけません。 イエス様は、私達一人一人を神様のみわざの、救いの体験の証言者として選ばれています。神様に出会い、救われた私たちが語らなくては、誰も聞く事が出来ません。 イエス様に敵対する価値観に翻弄される時があるかもしれません。死の力に負けそうになるかもしれません。その時に私たちは、今日の言葉を思い出します。イエスは死人の中にはいないのです。今も今日も生きておられ、生きている私たちに働いていくださる方なのです。

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