「心は燃えているのか」

2021年4月11日礼拝説教梗概

聖書:ルカの福音書24章13~35節

説教:安藤友祥主任牧師

この二人は復活が起こった同じ日に、失望の感情を抱えて、エルサレムを離れていました。彼らの心は暗く冷え、霊的な盲目の状態でした。女性たちの報告もたわごととして聞き離れていく二人に、イエス様は出会ってくださいました。 霊的盲目ゆえにイエス様が分からない二人。誤った福音理解、キリスト理解。そこから来る失望と、復活の報告を聞いても復活信仰が持てない二人。そんな二人をイエス様は叱責し、彼らが見えていない、聖書の真の理解について解き明かされます。 彼らがつまずいているイエス様の苦しみは、神様の計画であり、必然でした。神様が計画されたことが起こっているのに、失望する。誤った期待をして、本来行われるべき事が起こっているのに、それすら理解できていない。必要な事をつまずきとして、心を暗くしてしまっている。それらは霊的盲目によってもたらされました。 誤った福音理解、神様理解、キリスト理解。それらは希望のように思えて、真の意味で希望ではないからです。 ペンテコステ以降、クリスチャンには聖霊なる神様が助け主として与えられています。私たちの内に宿ってくださり、聖書を読むことを助け、正しい理解へと導いて下さいます。 復活の主に出会った二人は立ち上がり、エルサレムへと戻るのです。霊的目は閉ざされ、心は冷え切り、悲しみと痛みの出来事があったエルサレムから去った二人は、復活のイエス様に出会い、目は開かれ、心は燃え、喜びを携えてエルサレムへと向かいます。イエス様が見捨てなかった彼らは、証人として変えられたのでした。 彼らは、実現しなかったと思っていた神様による救いが実現していたと知る事が出来たから、心が燃えたと考えるのです。 私たちも聖書を読み、聴き、知っているかもしれません。自分が霊的盲目になっていないかと、神様に助けを求める祈りは必要です。神様によって開かれ、聖書を聖霊の助けを借りて理解する時、私たちはそこに書かれている約束、実現した出来事が、自分の出来事として、受け止め心が熱くなる思いを体験します。

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