「十字架に何を見るのか」
2022年4月10日棕櫚の聖日礼拝説教梗概
聖書:マタイの福音書27章27~54節
説教:安藤友祥主任牧師
教会は十字架の出来事を思い起こします。この十字架において、私達への神様の愛が最大限に示されたからです。救い主が命をかけて私達を救われた。私達には命がけの愛で愛する価値があるという神様からのメッセージがそこにあるからです。十字架から目を逸らしては神様の愛はわかりません。十字架から目を逸らしては、私達の罪はわかりません。
私達はイエス様の十字架の目撃者にされているという事に気が付きます。イエス様を馬鹿にし、苦しめている人々。彼らの発言はイエス様のアイデンティティへの挑戦でした。ではなぜ、「神の子なら自分を救ってみろ」という挑発、挑戦に対して、神様の子として自分を救い、証明して見せなかったのか?ここにイエス様の不思議があります。「神の子だからここで救われる」ではなく、「神の子だから苦しみを受け入れられた」のです。それは私達の身代わりとなって罪を背負い、死ぬという事を意味します。
私達は民衆と同じで、○○を見せてくれたら信じると、神様に挑戦します。こうなったら信じると神様に条件をつけます。ですが、その問いかけがそもそも自分たちの立場状況をわかっていない勘違いです。イエス様が神様の子なのか?救い主なのか?それはイエス様がこの時十字架から降りて証明されるような事ではありません。イエス様が救い主だということは、この十字架の出来事に雄弁に明らかにされています。イエス様が私たちを愛しているからこそ、この苦しみを受け入れられました。
マタイは私達に語るのです。私のために、あなたのために、イエス様は十字架で死なれたのだと。誰よりも愛を示してくださった神様のひとり子であるイエス様と、どのように関わりますか?と今日、私達はこの箇所を通して、迫りを受けています。
十字架は目を背けたくなるような痛みの出来事です。ですがその十字架を見上げる時に、イエス様、神様の愛がそこにある事、実現した事を私達は見るのです。教会が十字架を思い起こす時、教会は、神様の愛を味わい、再確認し、赦しを体験し、神様に従う事へと踏み出していくのです。
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