「それぞれの立場にあって」

2022年4月3日聖餐主日礼拝説教梗概

聖書:エペソ人への手紙6章5~9節

説教:安藤友祥主任牧師

パウロは救いによって人間関係にもたらされた変革に目を向けさせます。社会を作っている人の心が変えられる事によって、社会全体が変えられていく事を期待しています。当時の常識からしたら考えられない出来事がすでに教会の中では起こっている。その改革を起こす力を持ったイエス様の福音。教会の一人一人がそのように生きることを通して、神様の影響を社会に広げようとしていたのです。
 確かに今現在、誰かの奴隷かもしれない。けれども、その人の奴隷である前に、あなた方は天地の造り主である神様に従う者です。そしてその天の主人、真の主人に従う者として、真の神様に従うように地上の主人に従いなさいと励ますのです。
 主の十字架によって救われても、奴隷である事は変わらず、立場も変わりません。ですが、その変わらない状況の中で、生き方が変わっているという事に目を向けさせます。主人に仕える動機が、主に救われた事によって変えられた、新しく与えられたという事に目を向けさせます。理不尽な主人は変わらず理不尽のままかもしれない。ですが、その中にあって、救われた人自身は確かに変わっている事を確認します。
 キリストのしもべという視点がパウロの考え方の土台になっています。私達は人に仕える前に、神様に仕えるしもべです。大切な事は、心から、喜んで神様に仕える。従うということです。私達は神様に仕える事、従う事に心から喜んでいるのだろうか?と問われるのです。神様は「無理やり従わせて終わり」の方ではありません。神様を信頼し、喜び、心から従う時、神様のみこころにかなう事をする時に神様は報いを与えて下さる方です。
 パウロはその奴隷と主人に、いわゆる一般的な関係ではなく、全く新しい関係を求めました。主にある兄弟として、同じ主の体として、仕え合い、愛し合うという関係です。主人も奴隷も、同じキリストのしもべという立場であるという事。神様の目に立場は関係ない。地上の地位や立場でえこひいきも差別もしない方であるとの確信がパウロにはあるからです。

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