「主の祈り」

2021年3月14日礼拝説教説教梗概

聖書:マタイの福音書26章36~46節

説教:安藤友祥牧師

ゲツセマネでの出来事。それを目撃した弟子たち。この時彼らが体験している感情は、これまでとは異質の感情だったはずです。ここまで弱さを見せたイエス様を、彼らは初めて見たのではないでしょうか。これまで基本的に弱さや焦りを見せて来なかった人が突如として見せる、弱り切った姿は見る者に衝撃を与えます。 神様を父と呼びかけ祈り始められたイエス様。ただその内容は杯を過ぎ去らせてくださいという願い。イエス様はこれから自分が飲むべき杯、体験する肉体的な苦しみ、裁きとしての死、何より今「わが父よ」と祈っている神様との関係の断絶を経験しなくてはいけない事への拒絶が、この祈りの言葉に現れています。 ただ、イエス様の祈りはこれで終わりではありませんでした。私の願いよりも、神様が望まれることをなさってくださいと明け渡す祈りがここにあります。私たちは探られます。自分の願いだけを祈って終わってしまっていないかと。 対して弟子達の弱さが露呈しています。人間の意志や気合、心の持ちようだけでは試みや誘惑に打ち勝てません。だからイエス様は主の祈りで教えられました。神様に試みに合わせず悪より救ってくださいと。神様からの力を受けなくては、私たちは誘惑に陥り、試みの時に屈してしまう。イエス様がその事を神様に祈る事を教えられたのは、神様はその私たちの弱さに働き、救う事が出来る方だという事を教える為でした。 私たちは、自分が望む事を祈りがちです。けれども祈りは自分の願いを神様に訴えるだけではないのです。祈りは神様に聞く行為です。自分の思いを伝えつつ、それでも神様の望まれることが実現するようにと願い、神様がなさろうとしている事柄を受け入れられるように、神様に励ましていただき、ゆだねますと自分の意志を神様に表明する行為だと見えてきます。 イエス様は苦しみの中祈られました。神様のみこころがなるように。そしてその祈りは私たちの救いのための祈りでした。

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