「受難のはじまり」

2024年4月7日主日礼拝説教梗概

ヨハネの福音書 18章1~11節

説教:安藤友祥主任牧師

 

 

 

 

 イエス様は弟子たちと園に入られます。園にいたのはユダと、武装集団でした。4節「イエスはご自分に起ころうとしていることをすべて知っておられた」。ヨハネはこの言葉を書くことで、これから始まる出来事の本当の主導者は誰なのか?を読者に知らせようとしています。

 武器とたいまつをもつ集団。彼らは暴力によってイエス様を捕えようとしていました。そんな彼らに、イエス様は、自ら前に進み出ます。イエス様が「わたしがそれだ」と答えられた時、集団は地面に倒れこみました。この言葉は、旧約聖書で神様が、ご自分の名前だと示された言葉です。ここでイエス様はご自身の存在、権威を明らかにされます。この世的には武装集団の方が圧倒的に優位。けれども、誰もイエス様の権威に反抗する事も出来ない。この場の主権者はイエス様であるのだと、はっきりと示されるのです。

 7節、イエス様はもう一度「だれを捜しているのか」と尋ねられます。イエス様は、彼らの目的が誰なのかを明確にさせ、弟子たちに矛先が向かわないようにし、弟子たちを逃がすように命令をしています。この夜の出来事は、弟子たちにとって、試練の出来事でした。イエス様は、弟子たちには十分な信仰の備えが無いことを理解していました。だからこそ、園には連れて来たけれども、受難の道には連れて行かず逃がします。イエス様は自分に従う人々を助ける用意が出来ている方です。

その時、ペテロが剣で切りかかります。ペテロはイエス様を守りたいと、彼の持つイエス様への愛、情熱、熱心が生み出した行動だと言えます。けれども、イエス様の言葉を見る時に、これはペテロの間違った信仰から出てしまった行動だと言えます。ペテロはここで、問題を強引に解決しようとして罪を犯す姿を見せます。神様の計画は、神様の方法でしか成就しないという事を、私達人間は謙遜に受け止めることを迫られます。

 ヨハネは「園」という言葉を印象的に用います。「園」と聞くときに「エデンの園」を思い起こします。最初の人アダムは、神様を裏切り、隠れ、そして園から追い出されました。アダムの失敗を回復させるために、罪を贖うために、イエス様は「園」に入られます。始まりの失敗の場所、神様を裏切る場所だった「園」。ここではイエス様による「回復」が始まろうとしているのです。

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