「なにものにも引き離されない愛」

2023年11月12日召天記念礼拝説教梗概

ローマ人への手紙 8章18~39節

説教:安藤友祥主任牧師

私たちは、この地上での歩みが永遠ではなく、限りがあるものだという事を知っています。死を考えるときに、自分が死ぬという事への恐れと同時に、親しい人の死や苦しみ、痛みや恐れも経験します。また苦しみとは死が全てではなく、死以外にも多くの苦しみ、悲しみ、痛みがこの世界にあふれています。そのような苦難や悩みを持つ私たちに、苦難も死も勝利者ではないと書き送ります。

パウロは苦しみは避けて通ることが出来ないものであり、それは神様を信じていたとしても避けられず、信じているゆえの苦しみもあるのだと語ります。苦しみの中、私たちは言葉に出来ないという体験をします。先にある希望の約束はあるけれども、ただ耐え忍ばねばならない時もある。苦難の時、私たちは「神様に見捨てられたのではないか」と思う事さえあると思います。けれども、神様は、苦しむ私たちを放っておかれる方ではなく、関わり、とりなしてくださる方なのです。むしろ、苦しみの中にいる私たちから遠く離れた場所にいる神様ではなく、この苦しみの中、試練の中、ともにいる神様の姿。私たちのことを、状況を知り、苦しみを知り、とりなしてくださる方の存在に目を向けさせます。

パウロは私たちが神様の愛から引き離されたと感じるようなものをリストのように並べていきます。それは私たちを不安にさせるために並べたリストではありません。パウロは力強く、これらは恐れるべきものではないという言葉を重ねていきます。誰もキリストの愛には勝てないと。

死さえも、私たちを神様から引き離すことが出来ません。死別による別れを経験するときに、死という出来事によって、引き離されたと感じます。けれども、その死をもっても、イエス様からは引き離されないという愛を知るのです。死で終わってしまう、途切れてしまうのではなく、死を経験しても続いていく、変わらない、引き離されない関係があるのです。神様の愛は、死で、途切れたり終わることはありません。生きている時も、死の瞬間も、死の先も、神様の愛の中にあり続けるのです。先に見送った方々は、この死を持っても引き離されない愛で愛されています。「愛されていた」ではなく、今も愛され続けています。そして、同じ愛で、同じ関りで、今生きている私たちにも、神様は関わってくださいます。

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