「子とされる恵み」

2021年5月9日礼拝説教梗概

聖書:エペソ人への手紙1章3~14節

説教:安藤友祥主任牧師

今日ともに開いている箇所では、神様の神秘が、奇跡が、そして私たちへの最大の恵みが書かれています。それは、神様が私たちをご自分の子にしようとされていたという事実です。 本来は子でなかったものが、子としての身分を与えられる。私たちが子とされるにふさわしいから神様が与えて下さったのではありません。一方的に神様から与えられる恵みとして、私たちは受け取るしか出来ないのです。神様の子とされるという事は、神様との個人的な親子の関係に私たちが入れられたということです。神様がイエス様を通して、私たちに与えて下さる恵み、祝福の一つが神様との関係の回復です。罪からの裁きから救うだけでなく、養子にするという別次元の出来事です。神様は、神様の前に罪を持つ私たちを嫌々、仕方なく養子にするわけではないのです。むしろご自身が持つ豊かな恵みを、多くの子らに譲る事を楽しんでおられるということです。裏切る事を分かっている存在を、自分に背き続ける事を分かった上で、一方的に愛し続ける事が私たちは出来るのでしょうか?自分の持つ良い物、祝福をそのような存在に躊躇なく渡す事が、相続する事が出来るでしょうか?自分にこの神様の愛を重ねるときに、出来ないと思ってしまいます。自分の持つ愛、自分が出来る愛の限界を改めて知る時に、この神様が実現してくださっている愛の大きさに私たち触れます。これから愛されるのではなく、すでにこの愛を受けて生きているのです。どうして神様はそこまで愛してくださるのか?パウロはこの事を通して神様がほめたたえられるためだと言います。全ての祝福がキリストにあって与えられたように、私たちが神様の子として生きる事も「キリストにあって」を抜きには考えられません。パウロがこの箇所で何度も強調している「キリストにあって」私たちはキリストに組み込まれていくということです。キリストの目的が私たちの目的となっていく体験です。イエス様は神様の栄光のために生き、その結果、他者のために生きる生き方をされた方でした。自分よりも神様を優先し、その結果、自分より他者のために生きる生き方。結果としてその生き方は、自分も神様からの祝福を受ける生き方、神様をほめたたえる生き方であると気づかされます。

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